山菜やキノコ
森に入ること、それは私にとって冬を除いてここ数年、週に一度の習慣になっています。小樽はゴールデンウィークが過ぎて本格的な山菜採りが始まります。5月の第二週の週末から毎週発生する山菜を予想し山へ入ります。タケノコ、ワラビ、フキ、ギョウジャニンニク、ユキザサ等々予想があたりたくさん採れた時はやはりうれしいものです。私はワラビが好きなのでその年に食べる量を収穫し塩漬けします。そして春から雪の積もる時期までキノコの写真を撮影します。週末になるとその週にキノコが発生しそうな散策路を予想し入ります。目的地入り口に到着したら、レンズ、三脚、クマよけスプレー等を専用ベルトに装着し採集物を入れるリュックサック、撮影時に必要な膝あて、肘あて、レフ板等の入ったショルダーバッグ、カメラ、蚊取り線香等準備を整え山に入ります。春はアミガサタケ、ベニチャワンタケなどあまり種類は多くありませんが、春ならではのキノコを見つけることができます。キノコは地面や倒木、根際など低い位置に発生するので、膝あて、肘あてを使い這いつくばって撮影します。傍から見れば間違いなく危ない人に見られるでしょう。私がキノコに興味を持ち撮影する理由の一つに、被写体が動かないということです。たとえば野鳥の会の皆さんは被写体が常に動くので、超望遠レンズで撮影せざるを得ないでしょう。ほかの動物(犬猫や昆虫など)もその動きに合わせた機材を用意し撮影すると思います。もちろんこちらの意図とは関係なく様々なポーズをとり、その瞬間を捉える、それが魅力の一つになっているでしょう。私はじっとしているキノコを前に「ここに居ましたか!」と挨拶をし、撮影に取り掛かります。様々なアングルからお気に入りのカットを撮影します。その際、種類の同定(キノコの種類を決定する)をしますが、わからないことが多いです。むしろわからないことの方が多いかもしれません。そして発生している環境を考えます。時期、どこから出ているか、発生の種類(単生、群生、束生など)、周辺を見回し同じものがないかなど、そのキノコの情報を収集します。そして記憶に残します。これを繰り返します。散策、発見、撮影、考察。時に先に進めないほどたくさんの種類のキノコが発生している場合があります。また撮影するキノコを選択します。小さいキノコ、地味なキノコ、白いキノコなど興味のわかないあるいは撮影する価値を見い出せないキノコは無視します。
栄枯盛衰
なえぼ公園は、今から50年ほど前には、川にはカジカ、川を堰き止めた池にはタニシ、小さな流れの石の下にはニホンザリガニがいました。今ではその面影もありませんが。こうした生物の変化は、自然破壊とは別にその時代ごとの変遷だと思うので仕方がないことなのでしょう。川の流量の変化や堰き止めていた池を元の川の流れに戻したり。一言でいえば昔はよかった、豊かだったということになるのでしょうが、そうとはひとくくりには言えないでしょう。それは時の流れによる環境の変化ととらえることができます。大袈裟に言えば、自然界の栄枯盛衰でしょう。栄枯盛衰と言えば、今から800年ほど前に平家物語という鎌倉時代に成立した軍記物語があります。その冒頭は学校でも習った記憶があり何となく記憶に残っています。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、ひとえに風の前の塵におなじ。」祇園精舎の鐘の音には、この世の全てが常に流動変化し、一瞬と言えども同じ状態ではない、という無常の響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな物も必ずや衰えるという道理を示している。驕り高ぶる者も長くは続かず、凋落するだろう、ただ春の夜の夢のように。勢い盛んな者も遂には滅びるというのも、まったく風の前の塵と同じである。この解釈を見た感想は本当に800年前の人間が残したものだろうかと疑いました。これは現代の愚かな為政者あるいは征服者などの末路を予言しているようで、妙なリアリティを覚えました。そして人類は農耕文化を手に入れた時からこの習性をあらわにします。つまり人類は、富める者は持たざる者を従わせ、自らの存在を肯定し、肥大させ、私利私欲のみを追求する性(さが)があるということです。そしてこの種の為政者、征服者は滅びます。正しい道に導こうとする者がこれに換わりますが、また愚かな人間が民を束ねたとき再び滅びの道を進みます。この繰り返しで人類は少しずつ学習し、より良い未来へと民族、国家を発展させるのでしょう。
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