先日、角幡唯介氏の「地図なき山」-日高山脈49日漂泊行ーというノンフィクション作品を読みました。北海道新聞に掲載された紹介記事で彼の存在を知ったのがきっかけです。彼は、北海道生まれ、探検家、作家でチベットや北極などの世界を独創的な行動を通してその世界観を著し、多くの文芸部門(主にノンフィクション)での作品賞を受賞しているようです。この作品の舞台は北海道日高山脈で地図をもたず、事前の知識も入れることなく彼自身未踏の山域を単独あるいは二人で漂泊するものでした。

彼は大学で探検部に所属していたようで、登山には豊富な経験を持ち、社会に出てからも先にも紹介しましたが独創的な探検を展開しているようです。ほかの作品を読んだことがないので彼の全体像は分かりません。しかし探検する、冒険する、挑戦するという行動に対して、圧倒的な肉体と精神を兼ね備えた人物像が想像できます。
この作品の日高での登山は沢を登りどこにピークがあるのか肌感覚で模索します。作品を読んで沢登りの動画をいくつか見ましたがとても危険で、装備と経験を積み重ねてこそできる体験のように思えます。そしてその装備も必要最小限のものしか持ちません(どんな装備かはわかりませんが)。この山行で彼は数百グラムほどの熊よけスプレーでさえ携行しない判断をしました。その僅かな重量が負担になるのでしょう(私は小樽近郊の山歩きにも必ず携行します)。そしてこの作品では実際クマに遭遇しています。

遡行(流れを上流にさかのぼって行くこと)ルートは沢に沿って登り、二股に分かれた川筋は自身の判断で登りつめます。川のなかを進んだり、高巻き(直登できない滝や釜を左右の地形上の弱点をついて巻き登る)したり、藪漕ぎをしたり、私には想像を絶する世界です。しかし彼はこの荒行とも思える体験を冷静に見つめ先を進めます。想像できるのは、やぶ蚊や蜂、ダニその他の危害を加えそうな昆虫、クマ、一夜を山で過ごす恐怖、けがをした時の恐怖などあらゆる危険が待ち構えていることです。しかし彼はそれらの危険を内包しつつ、淡々とこの山行を綴っています。そしてこの登山を彼はこう言います、「登山の近代的本質は、まさに頂上をめざすという行動形態そのものによくあらわれていると私は思う。頂上をめざすとはどのようなことをいうのか。それは頂上というゴールに絶対的価値をおき、そのゴールにむかって効率的かつ合理的に進むことをいう。」合理的にピークを目指す、これが近代の登山の目的なのでしょう。しかしこれに抗うように、漂泊を実践します。そして漂泊登山の意味をこう言います、「〈漂泊〉とは、こうした山とのもろもろの〈距離〉を殺すために私が採用した行動原理であった。計画し、目的地に〈到達〉することを行為の目的にするのではなく、ただ山々を流浪する。到達に意味がなくなれば、そのときどきの地形や天気や出来事に応じて動くことができるだろう。〈そのときどきの地形や天気や出来事〉とは要するに山そのものなので、それは山という存在に組みしたがうことにひとしい。それが本当にできれば、到達的計画行動においては不可避的に生じた世界と私との距離を殺し、私と山は調和することになる。そのとき果たして何が見えてくるのか。」
彼の文章には山と対峙する気負いも猛々しさも感じません。そこにあるのは登山や自身の行動規範を冷静かつ知的に分析していることです。この知性に満ちた文章は彼の自然と向き合うありのままの本性のような気がします。

ところでこの作品の中にキノコに関する文章がいくつか出てきます。エノキタケの群生を見つけ食べたり、ナメコやエノキタケが岩魚やエゾシカより上なのでは、と思うくらい美味だとも書いています。ほかにアマタケ、タマゴタケなども登場します。そして何本もの立ち枯れ木に大量のタモギタケが群生していて、畑のようとも書いています。このような原始の山域へ足を踏み入れることはまずない私にとってタモギタケの群生などはまさに夢のような光景です。
そして思うのは、キノコは身近で私たちの目や舌を楽しませるだけの存在ではなく、自然の中にあってその環境を維持するための大切な構成要素なのだということです。
叶うなら原始の自然の中でキノコを思う存分観察してみたいものです。
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