【ルーツ】小樽の歴史、その源流を考える。|小樽 山歩き キノコなど

小樽

小樽の歴史

小樽には約3,500年前、縄文後期の忍路おしょろ環状列石や地鎮山じちんやま環状列石などがあります。この頃の気候は今より2℃くらい気温が高く、縄文海進で海岸線が今より内陸部にあったようです。当時は漁労、採集生活を送っていたと思われます。今より温暖で豊富な食材にあふれていたでしょう。小樽近郊には80くらいの環状列石が確認されているそうですが、実際に訪問したり、確認できるのはそうないような気がします。いずれにしろ温暖な気候を背景に縄文人が多く暮らしていたことと思われます。さてその縄文人ですが、いつから日本に住み着いたのか。その歴史をたどるとき、38,000年前の旧石器時代まで遡るようです。この旧石器時代人が日本列島へ北方あるいは南方ルートで流入し、北海道から沖縄までを貫いたようです。旧石器時代人は食料となるものを追って移動を繰り返していたようで定住はしていなかったようです。そして13,000年前に縄文人が定住生活を始めたようです。その後10,000年ほど続き2,300年前に弥生時代が始まるようです。さて、旧石器時代人、縄文人、弥生人は皆違う民族なのでしょうか。どうやら旧石器時代人から派生した同じ民族なのだそうです。旧石器時代人の顔は分かりませんが、縄文人や弥生人の顔はよく対比されてお目にかかります。そして縄文人の遺伝子を多く持っているのが、アイヌ人、琉球人なのだそうです。では弥生人はどうか。縄文時代の後期に大陸から、北九州あるいは日本海沿岸部を経由して、複数の渡来人が流入して、縄文人と交流していったのではないでしょうか。たとえば、私の兄弟がヨーロッパのある国へ留学、そのまま移住して現地の女性と結婚したとします。そしてその子供たちもそこで結婚、子供をもうけ、子、孫、ひ孫と子孫を残し、ひ孫が帰国して、私のひ孫とご対面したらどうでしょう。以前のブログで縄文人は絶滅したと書きましたが、縄文人や弥生人のDNAは現代人にも色濃く受け継がれているようです。北海道を詳しく見ていくと、旧石器時代、縄文時代に続き、続縄文時代、擦文時代、そしてアイヌ文化へと繋がっていきます。本州に渡来人が流入し稲作をもたらした時期に北海道には稲作文化が伝わらず、弥生人も流入しなかったので、続縄文時代という時代区分になるそうです。それに続く擦文時代は本州との盛んな交流がみられ石器から鉄器へと移り変わっていったようです。そしてのちのアイヌ文化の時代に入っていきます。つまりアイヌ人は縄文人のDNAを多く受け継ぎ、その精神文化である”アミニズム”を醸成させた、原日本人と言えるのではないでしょうか。しかしこの縄文人の精神文化はのちの日本人の精神文化、神道の八百万やおよろずの神々を祀る行為に受け継がれ、万物に精霊が宿るアミニズムから神道へと連綿と受け継がれているのです。これは弥生人、現代人においても精神文化の根本となるものでしょう。私たちは、縄文人の子供であり、自然と共存しながら畏怖の念を常に持ち続けることが大切なのではないでしょうか。そしてこの豊かな大地と精神世界を後世に繋げていく責任も担っています。小樽の歴史を紹介するつもりが、大幅に横道に逸れてしまいました。小樽の歴史は次回のブログで改めてご紹介します。

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