森羅万象
今回は南方熊楠を考えたいと思います。南方熊楠とは、和歌山県に生まれ、幕末(慶応3年)から戦前(第二次世界大戦)を生きた(74歳没)生物学者です。さらに生態学、民俗学、植物学、文化人類学など森羅万象を研究対象とした人物で、同時代の柳田國男いわく「日本人の可能性の極限」と言わしめたほどの知の巨人です。幼い頃から知への欲求が深く、8歳で「和漢三才図会」(江戸時代の百科事典のようなもの)などを筆写(書き写すこと)していたと言います。やがて16歳に上京して神田の共立学校(現開成高校)に入学し、17歳で大学予備門(東京大学)に入学するのですが、同期に、夏目漱石、正岡子規、秋山真之らがいました。しかし授業にはあまり出席せず、もっぱら菌類の採集などに明け暮れたことで落第し、やがて中退します。その後、アメリカに渡り農学校に入学しますが、やはり動植物の観察や採集を行い、メキシコへ渡り採集旅行をするなどして、やがてイギリスを目指します。ここでは大英博物館に出入りし博学を深めます。そして土宜法龍や孫文とも出会います。また「ネイチャー誌」に寄稿を重ね、51本の論文を発表しました。この数は未だに破られていないそうです。海外生活は仕送りを基に生活していましたが、その仕送りも打ち切られ帰国します。それが33歳のことでやがて和歌山県田辺市に定住します。そこで生涯、在野の研究者としての生活を送ります。主に粘菌の標本、藻類の研究、キノコの図譜作製などを中心に活動を広く進めます。キノコの図譜(彩色図)は3,500枚にも及ぶそうです。そして政府の進める神社合祀に反対する運動を起こし、その神社合祀令の廃止に尽力したり、和歌山県を行幸した昭和天皇に御進講し、粘菌の標本を110種類献上したり、その行動、言動はその時代に多大な影響を与えたでしょう。しかし注目するのは、決して中央に進出し地位や名誉を獲得する欲をもたず、和歌山県で在野の研究者として生涯を送ったという事実です。彼の手法は、主に粘菌、藻類、キノコなどを調査、発見、観察、記録し、これを何年にもわたり研究し続け、15,000種の菌類を採集したとも言われます。まさに知の巨人です。
彼の名言に「宇宙万有は無尽なり。ただし人すでに心あり。心ある以上は心の能うだけの楽しみを宇宙より取る。宇宙の幾分を化しておのれの心の楽しみとす。これを智と称するかと思う。」がありますが、要約すると、この世界は無限である。これに比して有限の人には心がある。心があるからそれが受け入れられるだけの楽しみを世界の事象から取り入れることができる。この世界の事象のいくらかを咀嚼し吸収することを心の楽しみとする。これが知ということかと思われます。
たとえば、夜空に広がる宇宙の138億光年先を調べること、水深8,000mの深海の世界を調べること、そして足元の一握りの土の中に広がる宇宙を調べること、これらは皆、知の冒険という意味でつながるのではないでしょうか。そんな知の旅を続けること、私なりのできることは、土の上に這いつくばり、そこにある世界を観察する事、それは遥か彼方の熊楠の背中を追うような作業かもしれません。しかしその対象物への研究深度は比ぶべくもありませんが。
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