虞美人草について
夏目漱石の作品は好きで何度も読み返します。最近読み返しているのが、虞美人草です。この作品の魅力は、その口語体の美しさにあります。たとえば村上春樹の流れるような文章はクラシックを聴いているような静けさの中で進みます。これに対して漱石の虞美人草での文章はたとえば、登場人物の藤尾を表現する件をかりると、/紅を弥生(陰暦三月の異称)に包む昼酣なるに、春を抽んずる紫の濃き一点を、天地の眠れるなかに鮮やかに滴たらしたる如き女である。夢の世界を夢よりも艶(華やかで美しい)に眺めしむる(ぼんやりと見る)黒髪を、身だるるなと畳める鬢(頭髪の側面)の上には、玉虫貝を冴々(澄んではっきりしていること)と菫に刻んで細き金脚にはっしと打ち込んでいる。静かなる昼の、遠き世に心を奪い去らんとするを、黒き眸のさと動けば、見る人は、あやな(ああ)と我に帰る。半滴のひろがりに、一瞬の短きを偸んで、疾風の威(人を従わせる力)を作すは、春に居て春を制する深き眼である。この瞳を遡って、魔力の境を窮むるとき、桃源(理想郷)に骨を白うして、再び塵寰(けがれたこの世のこと)に帰するを得ず。只の夢ではない模糊(はっきりしないさま)たる夢の大いなるうちに、燦(鮮やかにかがやくさま)たる一点の妖星(彗星や流星)が、死ぬるまで我を見よと、紫色の、眉近く逼るのである。女は紫色の着物を着ている。/巻末と調べた注釈を入れて読んでも、よくわかりませんが何か心地よいリズムをあじわえます。飛躍しすぎるかもしれませんが、小学生の時、夕方5時、ラジオから流れる洋楽のトップテンの、ミッシェルポルナレフやジョンレノンのナンバーを歌詞の意味も分からず、その旋律に聞き入っていた感覚とこの文章の旋律とが同期するような。
さてこの作品のあらすじですが、甲野藤尾は虚栄心の強い美貌の女性で、兄(欽吾)の友人である宗近一とは親の決めた許嫁のなかである。しかし藤尾は家庭教師である、将来を嘱望された優れた文学者である小野さんを籠絡しようと目論む。小野さんも藤尾に好意を寄せているが、小野さんには婚約者として、恩師である井上孤堂の愛娘小夜子がいる。この関係を軸に、欽吾の継母であり藤尾の実母である謎の女、宗近一の妹糸子などが絡み物語は進んでいく。この作品は読み進んでいくうちに、その映像、音、匂いがありありと感じられ、明治期の活況に引き込まれていきます。そしてこの作品の私なりの解釈ですが、その当時の最先進国イギリスが藤尾で、旧態依然とした日本が小夜子としてとらえると、小野さんは、富国強兵を唱え、列強諸国に追随しようとする未来の日本と、アジアでの日本独自の発展を進めようとする未来の日本が板挟みになって、苦悩する姿を描いたのではないでしょうか。実際、漱石は国費を使ってイギリスに2年間留学しています。帰国後、帝大の教授になりますが、その後朝日新聞の文芸員として下野します。彼は日本の近代化を推し進める世の中に疑問を呈し、内側から湧き上がる機運ではなく、外圧による強制に近いものだと痛罵します。イギリスに留学した経験に基づいた彼なりの結論なのでしょう。そんな彼がこの作品で出した結末、それは。未来の小野さんは、日本は。漱石作品は今も読み返しています。食事とお酒を飲んだ後、床に入り睡眠剤として利用させていただいてます。漱石さんごめんなさい!
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