【悠久へのいざない】古墳起源|小樽 山歩き キノコなど

古墳
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古墳時代を考える

古墳の定義は、3世紀中頃から7世紀までの古墳時代に築かれた、土を盛った墳丘をもつ墓の総称です。古墳の分布は全国に及び、都道府県別で多い順に
1位 兵庫県 18,700
2位 鳥取県 13,500
3位 京都府 13,100
4位 千葉県 12,700
5位 岡山県 11,800
以下広島県、福岡県、奈良県、三重県、岐阜県と続き北海道、青森県、秋田県を除く各都府県に存在します。その数は16万基とも言われています。しかし古墳時代の初期3世紀中頃から一斉につくられたものではなく、その築造には流れがあります。まず初期の築造から見ていくと、弥生時代からの流れを考えなければなりません。古墳時代の前の時代区分は弥生時代です。弥生時代から古墳時代へ移行する明確な論拠は土器の形態変化にあるようです。弥生時代にも墳丘墓はありました。盛り土をした墳丘墓には円丘や方丘などいくつかの形態があり、特に特徴的な四隅がヒトデのように飛び出した四隅突出型墳丘墓などが中国山間部・山陰・北陸などで発達しました。さらに弥生時代の後期には墳丘の大型化も見られ、諸要素の継承と飛躍を経て古墳時代の古墳へと続くものと考えられます。その古墳の築造を加速させた要因の一つに人口があります。各時代の人口を見ていくと、縄文時代は東日本を中心に27万人、弥生時代は西日本を中心に60万人、そして古墳時代の人口は540万人と飛躍的に増加します。この増加した理由は、稲作が広く普及し生産性があがり多くの民が十分に食べていける下地ができてきたということでしょう。あと一つは渡来人が多く流入しそれに伴い彼らの発達した技術も持ち込まれ、稲作に必要な治水・利水・灌漑技術や鉄器の普及も加速され稲作にまつわる環境がより高度に発達していったと考えられます。そして古墳時代初期の注目すべき地域は弥生時代から続いている奈良県奈良盆地に広がる大規模集落群でしょう。

この地域は河川が網の目のように広がり稲作栽培にとって最適な場所と考えられます。そのためこの地域はやがて豪族と呼ばれる一族ごとの集落が広がり、それぞれの発展を遂げ同時に古墳も独自に発達していきました。その中で特筆すべき地域が箸墓古墳はしはかこふんを含む纏向遺跡群まきむくいせきぐんでしょう。この地域の古墳の築造時期は2世紀末~3世紀中頃に始まり築造順に
纏向石塚古墳→纏向勝山古墳→纏向矢塚古墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳と続きます。いずれも前方後円墳の様式がうかがえますが、箸墓古墳とそのほかの古墳では明らかな差異があります。箸墓古墳はほかと比べ規模が大きいのが特徴ですが、その形状を元としたつまり同一設計の古墳が各地域に築造されているという事実も確認できます。それは3世紀末ごろに見られ、たとえば箸墓古墳の1/2に規模を縮小したものに岡山県の浦間茶臼山古墳、1/3に縮小したものに京都府の元稲荷古墳、五塚原古墳、1/6に縮小したものに岡山県の備前車塚古墳などがあります。この事実から推測できるのは前方後円墳の始まりは纏向遺跡群の中のいずれかの古墳で、箸墓古墳は大王級おおきみきゅうの古墳でこの古墳をもって各地域に前方後円墳が伝播していったのではないかということです。つまりこの国を統治するであろう豪族の中のある一族が箸墓古墳を築造し、これをもってこの地を中心とした中央集権国家を建設していったのではないでしょうか。そしてこの古墳の意義は単に豪族を埋葬するという行為以外に、その時代に広がる各地方の統治者の民を集め、この古墳築造に従事させ、中央集権国家を目指す大王の権威を内外に示しかつその築造技術を地方に広げ中央に従う目の見える構築物を伝播する目論見がうかがえます。そして地方に築造する古墳に対して専門技術者がその地を訪れ築造の指導をし、また稲作に関する治水や灌漑の技術を伝承し中央とのつながりを確かなものにしていったことが容易に想像できます。こうして豪族の中から大王が選抜され国家としての形を整える黎明期の始まりととらえることができるでしょう。

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