【悠久へのいざない】古墳起源Ⅲ|小樽 山歩き キノコなど

古墳
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古墳の衰退と神社の意義

今回は古墳時代6世紀~7世紀の後期古墳時代を見ていきたいと思います。古墳時代中期の隆盛期を過ぎ前方後円墳の築造が減り始めました。簡単に流れを追うと近畿地方の前方後円墳に限ってみていくと、
おおやまと古墳群→佐紀古墳群→百舌鳥・古市古墳群→三島野古墳群→6世紀後半の五条野丸山古墳・平田梅山古墳の築造をもってその歴史に幕が引かれました。ひとつの理由として大化2年(646年)に発布された身分に応じて墳墓の規模などを制限した「薄葬礼(はくそうれい)」が勅命されたことや仏教の伝来で土葬から火葬に変化したことなど様々な要因が考えられます。それは公共事業の性格もさることながら、祭祀センターとしての側面も失われつつあったのではないでしょうか。人々から古墳の存在が遠のいていったのは想像できます。そして仏教が伝播しはじめ、人々の注目が仏教を中心とした文化に傾倒していったかもしれません。しかしここで注目したいのは縄文・弥生時代から連綿と続いている八百万の神の崇拝でしょう。古墳はいわば王権や豪族、地方の権力者を中心にした祭祀を行った場所と考えられますが、それとは別にアニミズムを中心とした祖霊崇拝も色濃く存在したでしょう。それは以前ご紹介した奈良盆地に広がる纏向地方をひらいた人々の信仰上の拠りどころが三輪山に由来し、山そのものがご神体とされました。やがて体系化がすすみ、新たな崇拝拠点として神社が生まれたのではないでしょうか。そしてこの神社という崇拝拠点は各地に分祀という形でより広く普及することになります。それはまるで前方後円墳が全国に築造されたように、神社がそれにとって代わり、全国に八百万の神を崇拝対象とし広く伝播していったのではないでしょうか。それは崇拝対象を為政者という縛りから解放された人々の根源的な祖霊崇拝に回帰するいわば内面に訴える信仰だったような気がします。つまり古墳の存在意義が時を経て神社へと変遷し現在もその姿を日本人の精神世界の具現化したものとして人々の心の拠り所になっているのではないでしょうか。この日本人の精神性は神社にお参りに行かなくても、いつも八百万の神が私たちに影響を与え、世界でも類を見ない国民性を生み出している気がします。それを後押ししているのが、森林、水の循環など再生を繰り返す豊かな自然も大きな要素となっていると思います。この豊かな大地を後世に残すこと、それこそがわれわれ日本人が思い、実行できる第一歩と考えます。

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