古墳の大規模化
今回の古墳時代は4世紀末~5世紀、中期の古墳を見ていきたいと思います。この時期は古墳の大型化が顕著に見られます。たとえば最初の大王の古墳と見られる箸墓古墳(被葬者の治定 7代孝霊天皇の皇女 倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ))の墳丘長は280mほどですが、この時期の最大の墳丘長を順に並べると
大仙陵古墳(被葬者の治定 仁徳天皇)は486m
誉田御廟山古墳(被葬者の治定 応神天皇)は420m
上石津ミサンザイ古墳(被葬者の治定 履中天皇)は365m
造山古墳(被葬者の治定 なし)は360m
などと続きます。
*治定とは宮内庁が陵墓の被葬者を特定する事。基本的には被葬者の名前は残されていないので、実際に調査をしなければこの特定は確証とは言えません。
ある試算によれば大仙陵古墳の造営には延べ人数680万人が動員され、15年の月日を費やし、現在の金額で800億円かかったそうです。上位3つの古墳は大阪府に存在し、百舌鳥・古市古墳群に属し、前方後円墳の最初の築造地域と思われる、おおやまと古墳群→佐紀古墳群→百舌鳥・古市古墳群と続き、より大阪湾に近い西へと移行しています。これは海外との交流を見据えた場所を選択したととらえることができるのではないでしょうか。
そして大型化の意味することは、爆発的な人口増加に伴い民を掌握する手段として農閑期に古墳の築造を進め、対価を与える公共事業的な性格を持ち合わせていたと考えられます。さらに大王の墳墓としての機能のみならず祭祀センターの装置としての役割も担っていたようにも思われます。
つまり中央集権国家を構築する上で大切な建造物で、この古墳を地方に伝播させることで中央に対しての忠誠を目論むものと言えます。それには土師氏などの古墳造営や葬送儀礼に長けた豪族を派遣したり、その地の治水・利水・灌漑などを発達させるためにその技術に長けた豪族なども中央から派遣されたでしょう。このように古墳時代の中頃には大王を中心とした王権が大伴氏、物部氏、蘇我氏など有力豪族を従え、それぞれの得意分野を生かして強力な支配体制を構築していったものと考えます。こうして全国に前方後円墳が多くつくられ古墳時代の隆盛期を迎えます。そして全国に広がった古墳は現在、各地方の管理者が古墳を整備し観光資源として活用し多くの人々に古代のロマンを伝えています。私のように北海道小樽の片田舎に住んでいるとなかなかお目にかかれない貴重な遺構と言えるでしょう。例えば関西以外でも、千葉県や群馬県、宮崎県などなど。その地を訪れ悠久の時の流れを実感したいものです。
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