小樽の歴史
今回は、前回のブログの続きです。前回は縄文人のDNAがアイヌ人に受け継がれた流れをザックリご紹介しました。小樽が縄文人の暮らしていたころからアイヌ人が登場するまでの詳しい情報はほとんど手に入らないと思いますが、小樽のアイヌ人は虻田アイヌとの結びつきがあり、洞爺湖西方の有珠・虻田地方から移住し、石狩アイヌの勢力圏の端に位置していたようです。おそらく現在の銭函を拠点として、鮭やニシン漁を生活の基盤にして、忍路以西まで生活圏を広げていったものと考えます。やがて慶長元年(1596年)渡島福山(現在の松前町)の住人、八木勘右衛門がオタルナイに来て漁業に従事した最初の和人とされます。その頃のオタルナイとは銭函のあたりだったようです。やがて松前藩は商場(あきないば)知行制から場所請負制度に制度を移行し、アイヌ人との交易権を「場所請負人」の名目で商人に代行させて知行主(場所請負人)は一定の運上金を得るものになりました。こうして、忍路から西のオショロ場所、忍路から於古発川(妙見川)までのタカシマ場所(シクズシ場所)、そこから手稲までのオタルナイ場所で交易が行われました。本州でのニシンの需要が高まり、漁の中心がアイヌ人から和人にとって代わり、和人の入植が増え、逆にアイヌ人は和人の持ち込んだ感染症や流行病によって命を落としたり、強制移住をさせられたりして人口が減少したようです。そして1865年、小樽は箱館奉行所の出先「村並」になりました。続く1869年(明治2年)には、「蝦夷」を「北海道」とし、「オタルナイ」を「小樽」と改称しました。明治政府は札幌を北海道の拠点とすべく、物資の供給基地として小樽港の整備を進めました。港から運ばれてくる物資を保存するため、港沿いに木造石造り倉庫が次々と建てられました。1880年(明治13年)には北海道初の鉄道である「官営幌内鉄道」が敷設され、石炭の搬出港となります。ニシン漁も最盛期を迎え、全国各地から移住者が詰めかけました。明治後期には、全国屈指の経済都市、港湾都市に急成長を遂げ、「旧日本郵船株式会社小樽支店」や「日本銀行旧小樽支店」などが建設されました。この明治の好況は大正時代も継続し、現在歴史的建造物として残る銀行の建設が盛んに行われました。そして1914年(大正3年)荷役作業を効率的に進めるため、海岸を埋め立て、「小樽運河」が誕生しました。1922年(大正11年)市制施行され、小樽市となります。ここで小樽の人口の推移をみてみましょう。1867年(明治元年)2,230人、1920年(大正9年)108,113人、この年第一回国勢調査が行われ全国13位の人口規模だったそうです。1964年(昭和39年)207,093人、ここがピークです。2015年(平成27年)124,112人、50年で8万人ほど減少しています。そして市制施行から100年の2022年(令和4年)を過ぎ、2023年(令和5年)現在、108,178人になりました。ここまで足早に小樽の歴史を見てきましたが、小樽という名称が与えられてから約150年、隆盛も衰退も経験し、激動の時代を矢のように通りすぎたような気がします。そして今、観光地として歩む道を選択しました。これは間違いのない選択だと思います。私たちは先祖のつくり上げた、日本あるいは北海道独自のさまざまな文化を世界に発信することは、とても大切で有意義な行為だと思います。世界に誇れる文化を大切に後世に残していきたいものです。
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